<親族>

りんごの花

 ♡記録に残らない繋がりに固い絆が生まれることもあるだろう。

〈親族〉

 私の家族は昭和十四年六月、弘前で生まれ、北海道、三井美唄工業所にて、十七年二月、三歳の誕生日を待たずして夭折した長男を数えると父母、長男、長女、二男、二女、三男の七人家族だった。

 母方の親族との触れ合いの記憶は豊富でも、父方の親族に関する、心に残る記憶となると嘆かわしいほど貧弱で、口述された事柄が多い。

 父方の生業が酒屋で、その屋敷が土間を境に店舗と居住が分離した縦長の構造になっていたと、姉、兄はもとより五歳下の弟までもが記憶していると言うが、私には全く覚えがないのだ。奥行のある建物の裏口を出ると墓地があったことや、菩提寺に本家と分家の位牌が収められていたこと。祖父、末太郎が祭り好きで一斗樽を飲み干した酒豪家で、ついたあだ名が「寅吉」、何かにつけて担ぎ出され、もてはやされた伝説を、皆、知っているのだ。姉に至っては、窓辺に置かれた珍しい人形に触れようとして、叱られた。その人形とは童謡にもうたわれているアメリカ生まれのセルロイド製。戦後日本で製造されたというキューピー人形だった、と悲しかった思い出をくやしげな口調で語る。

 末太郎が他界した年に誕生した弟に関しては伝授された記憶であろうと思われるも、セピア色の一枚の写真が物語っているようだ。墓地の傍らにチョコンと座り込んだ三歳前後の男の子は父と共に墓参りをしたのだろう。祖父の三回忌だったかもしれない。〈三つ子の魂百までも〉かなである。

 一方、母方の親族との触れ合いの記憶が豊富なのにはそれなりの理由があった。

 兄と私は母の実家で生まれた。母の実家は林檎栽培、稲作を主とした農家だった。

 母の父、弥四郎が娘達(母と叔母)のために土地を購入し、自ら造作した、板を打ち付けた小さな家は東玄関、囲炉裏のある居室つづきに格子窓の寝室まで備わっていた。外には厠があり、井戸と洗い場を設えてくれた。姉妹のそれぞれの小さな空き地は、家庭菜園と花壇になった。弟が誕生し、祖父、末太郎が旅立ったのもこの家だった。

 母の実家に近く、弥四郎の耕作する田畑はもっと近いところに位置していた。繁忙期には一家総出、子供達まで駆り出された。

 農地は開発により団地となって今は存在しないが、農家と給与取得者の混在するこの地域は今も昔もあまり変わっていないようだ。

 成田宇三郎一家と末太郎との関係は切っても切れない親戚関係にあったのは、前述した通りだが、石岡弥四郎家との繋がりが強固になったのは、成田宇三郎の二女、ソヨが末太郎ではなく、弥四郎と婚姻したことによる。

 茅葺屋根の農家の主、曾祖父、男次の長男は明治二十六年九月十日生まれの二十二歳。弥四郎は成田宇三郎・ヨシの二女、明治三十年三月二十日生まれの十八歳、ソヨと大正四年に婚姻入籍した。成田文蔵の姉とはこのソヨのことだった。

 長女、サヨが他界する三年前のこと。三年後だったら果たして石岡家と縁が生まれていただろうか。これぞ運命と思わざるを得ない。

 私の母はこの二人の第一子、長女として誕生した。

 それにしても結婚が家と家の結び付きであったのだと思い知らされる。因みに末太郎の第一子「すよ」の子は成田文蔵の妹クニと婚姻届けしたとある。これまでに成田家はサヨ、ソヨ、タミ、文蔵、クニが登場した。クニは非嫡出子である。父親の欄は空欄だ。

 成田宇三郎の妻は夫に先立たれた後、明治四十三年十月二十六日にクニを産んだ。タミと十一歳半離れた文蔵の妹であった。

 この後、石岡家は曾祖父母と同居する弥四郎夫妻の間に、七人の男子、四人の女子が誕生した。しかし、二人夭折して九人となる。長女、長男、二男、三男、二女、四男、五男、六男、三女の順に誕生した。

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