<追憶>

<記憶>

 過ぎ去った出来事の情景は年月と共に変化し、喜怒哀楽の感情は総じて曖昧になってしまったようだ。遠く離れて思い浮かべる幼い頃の鮮やかな風景もまたいつの間にか色褪せていく。

 祖父はゆっくりした足どりで歩いた。その歩みは彼の背を追いかける幼い私の歩幅に合わせていたのではない。祖父が立ち止まったり、私が駆け寄ったりするような動作はない。ただ一定の距離が保たれたままの音声も表情もない映画のワンシーンをみるような風景。だがこれは、夢の中のことではない。霞に覆われた祖父、末太郎とふれあった私が思い出せる<唯一の記憶>なのだ。

 父の父。祖父、末太郎は明治十四年十二月に誕生し、昭和二十八年十月二十七日に他界した。このとき私は五歳だった。

 祖父にまつわる思い出といえば、もう一つある。それはにわか仕立ての祭壇の前で、四歳年上の兄に馬乗りになって、供え物をねらう不謹慎な遊びに興じたことだ。褒められた記憶ではないのに消滅しない。

<冊子>

 明治四十五年が大正元年と重なり、大正十五年が昭和元年になった。彼は明治、大正、昭和の時代を生き、七十二歳の生涯を閉じたことになる。

 三人の妻を娶り、十一人の子供を授かった。彼の人生が波瀾万丈に満ちたものだったろうと想像する。たとえ晩年は安穏とした暮らしだったとしても、平々凡々な一生を送ったとは思えない。

  末太郎がすまとの結婚を契機に分家届出をして、親の戸籍から独立したのは二十六歳の春。それから一年後、戸籍の一行目に「妻、すまと協議離婚届」と不名誉な記載がなされた。

 十二ページにわたる戸籍抄本の記載は私の好奇心をかりたてる。 

 どうして二人の結婚生活が一年足らずで破綻したのか。もろく崩れ去った理由は多分にあった。結婚に対する憧れと現実生活のギャップを知った。互いの人格を尊重することが出来なかった。こんなはずじゃなかった。もう堪えられない。等々、些細な不満が膨れ上がった結果だったのだろうと、私は推測した。しかし実際は、そんな有り体なことが協議離婚の原因となったのでないと、冊子の二ページ目をみて思いを改めた。

 末太郎の第一子は明治三十八年四月十五日に誕生。末太郎二十三歳四ケ月のとき。母の名前は「すよ」であり、「すま」ではない。「すよ」の詳細はない。「すま」と結婚するおよそ二年前のことだ。未入籍、未婚の母であっただろう「すよ」の心中もさることながら、幸せな結婚を願ったはずの「すま」は怒り、苦悩し、深い悲しみの涙を流した。許すことの出来ない現実に直面したからだとー。

ジュンベリー

 末太郎は明治四十四年八月、二度目の結婚をした。二十九歳九ケ月だった。すまとの協議離婚届出をしてからおよそ三年後のことだ。

 成田宇三郎・ヨシの長女、サヨは明治二十六年十月生まれ。十七歳十ケ月。一回り離れた夫婦である。

 サヨの第一子の誕生と入籍届日が同年同月。今風に言えば、できちゃった婚だった。

 戸籍抄本上ではサヨの第一子は二男と記載されている。のちに父母との続柄を訂正されるまで、サヨの子は二男、三男扱いされている。この時点で、すよの子が末太郎の戸籍に入籍されていたのだ。

 この動かし難い事実関係を受け止めざるを得なかったサヨの心情は複雑で、妊娠当初から不安定な状態に置かれていたに違いない。

 サヨの父はすでに他界していたが、健在であったならひと悶着あっただろうし、素直に承諾しなかったかもしれない。が、とにもかくにも二人は共同生活をスタートさせた。

 更に年月が経過した三年後、末太郎はある決心をする。大正三年三月二十三日届出とある転籍の記載。これが何を物語っているか理解できるというもの。大正三年五月に二男が誕生していることを鑑みれば、彼は心機一転、引っ越しをすることにしたのだ。

 末太郎とサヨの生活拠点が変わったことで、気持ちを切り替えることができたし、幸福感に満たされ、夫婦仲は良好だった、と思いたい。大正五年十月に三人目が誕生した。女の子を授かった。それが証明である。

 私は果てしない思いを巡らせ、冊子の記載事項に想像を広げて読むことを止められなくなった。

 すよの子はサヨという継母に育てられたのかそれとも、実母と共に暮らしたのか。すよの存在はどう扱われたのか。サヨは末太郎の離婚歴、一児の親であることを知っていて交際したのか。等々、事実の裏付けを知りたくなった。がしかし、平成、令和の今となっては限りなく不可能なこと、想像の域を超えられない。

 冊子の記述はまだまだ波乱を謳っている。いかに運命は残酷かを知らしめる。

 末太郎とサヨの暮らしは七年で終了した。サヨは大正七年九月、二十四歳の若さで亡くなったのだ。満七歳一ケ月、四歳四ケ月の二人の男の子と二歳に満たない女の子、三人の幼子を残しての他界だった。 

 末太郎は大正八年九月、三度目の結婚をした。サヨが逝って一年目のことである。結婚相手はサヨの妹タミである。タミは宇三郎・ヨシの三女。明治三十二年四月生まれ。二十歳。末太郎三十八歳。サヨ同様、<成田文蔵姉届出>と記載されている。

<成田文蔵の姉>とは誰なのか。

 末太郎のこの冊子のみからの判断では少し心もとないが、故成田宇三郎と文藏、文藏姉は兄弟姉妹という家系図を想定してみた。すると、〈成田文藏の姉〉と姉妹の関係はおそらく叔母(又は伯母)と姪にあたる。サヨ、タミとの結婚はこの姉(おば)の活躍なしには成立しなかったかも知れなかった、と思えてくる。 

 タミの死亡届は昭和十七年八月二十九日になっている。

 因みにタミの第一子は大正八年十二月十五日に長男(四)誕生。二年後に二男(五)、更に二年後の十二年に長女(二)、十四年に三男(六)、昭和三年に四男(七)、六年に二女(三)が誕生している。九年六月誕生の五男(八男)は昭和三十三年、二十三歳半の時、北海道釧路市在住の夫婦と養子縁組をした、との記載。

 それにしてもタミは二十歳で長男を産んで以来、産後の自身の体を労わる間もなしに、三十三歳までの十三年間、子供を産み続けたのだ。

 タミは八年後の十七年八月、四十一歳で逝った。

 姉・サヨが残して逝った幼子三人を引き受け、自分の子供ら(二人夭折し、四人)と共に育てたタミに、若くて健康的な肝っ玉かあさんをイメージし、夫婦仲のよい賜物を授かって良かった、と称賛の言葉を口しても、パッピーエンドで閉じることはできない。

 子沢山を奨励された時代背景、本人の意思は蚊帳の外扱い、有無を言わさず推し進められたのではないか、という思いもまた否定できないからだ。 

 しかし、しかし、と呪文の如く呟き、私は私のこの想いを戒める。末太郎の子孫の中には、彼等と同じような運命の扉を開いてしまう者がいることを知った。運命の采配は如何に・・・・・・。

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水仙

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